昭和48年05月04日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 ここん所で私この御理解で一番大切な所は、まず心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃと言う所だと思うですね。心に真がなければ例えそれが、雨が降るから風が吹くから偉い、大儀とも思わずに一生懸命に参っておりましても、心に真がなかったらそれは身に徳を受ける修行と言う事にはならないと思うです。そこん所がまず整えられて、そして信心辛抱ですね。どの様な所へありましても雨が降っても、風が吹いても辛抱すると言う事で、始めて身に徳を受ける修行と言う事になると思うです。
 ですから信心が心に真がなければと言う事は、自分の心の真と言うものの、検討から先ず掛らなければならないと言う事になるんです。そこから自分というものがはっきりしてくる。所謂真の自分と言うものが分かってくる訳です。そこから愈々謙虚にもなれる。本気で是は改まりもしなきゃ、本気で磨く事に努めなければ、本気で朝参りの一つも思い立たなければと言った様な事になってくるのじゃないかと思う。そういう例えば心に真というものを、まず見極めてそして信心にかかる。
 ですからちょっと私は時間がかかると思うんです。そこまでにいうならば先ず自分の心。自分の本当の姿というものを先ず見極めると言う事から、信心は始められる。勿論これはどこまでも身に徳を受ける修行と仰るから、徳を受けると言う事は信心と言う事なんです。信心をすれば、誰でも御神徳が受けられると、昨日の朝の御理解です。別に願った事が成就したから有難いと言う事でなくて、この喜びが何処から来て、何処へ去って行くのかと思われる喜び。
 所謂信心の本当の意味に於いての喜び所謂妙賀である。信心の喜びである。おかげの喜びじゃないのである。この喜びが何処から来て、何処へ去って行くのか。そういう例えば真実の心というものを見極めながら、そこから真の信心をわからせて頂こうとする姿勢。しかも今日の御理解で言うと、その事の為ならばよし雨風に屈する事ない、どの様な障害があっても、そこを通り抜けさせて頂くと言う辛抱が身に徳を受ける修行じゃと仰る。只、朝参りが何十年続いておるという方達もありますよ。
 私の知っておる教会なんかにゃ、教会に一人二人そういう方が必ずあります。けれども只おかげと言う事だけに焦点がおかれている方達の場合の信心が、殆どのように思います。だから拝む事だけはそうに拝みなさる。辛抱に参って来なさる。と言うて成程おかげは受けておられるにしましても、身に徳を受ける修行と言う事になっていない 根本的なところが間違っているからです。いわゆる神様に喜んで頂けるような。私は今日御神前で、神様を揺り動かすものと言う事。
 もっと他の言葉でしたけれども、そういう意味の事を頂く。神様の心を捉えて外さない。神様の心を揺さぶる。あぁ揺さぶると言うことでしたね。揺さぶる。神様の心を揺さぶる程しのもの。それは私は心に真とこう仰る。自分の心の真実の姿というものに気付いた時、そこからです。本当に相すまん私であったと言う、謙虚な姿勢というものが生まれてくるんです。私が引き揚げて帰って参りまして、食べる資格もなからなければ、着る資格もない私だと気付いた所からです。
 それは自分自身の、真実の姿というものが分かったからです。分かった所から、とてもとても食べる資格がない、着る資格がないと言うて、食べん訳にはいかんから、日に一碗のお粥さん、もう夏も冬もなからなければ、一枚の洋服で過ごす。とてもとても、布一寸でも買うて身につける等という様な事は、夢思わなかった。そう言う様なですね、自分というものがはっきり分かりだしたら、頂く資格のない私というそのへんが、私は神様を揺さぶったんじゃないかと思うですね。今朝の御理解から言うと。
 神様の心を捉えて外さなかった。そこから神様も氏子が本気なら、神も本気になるぞと言う所からです。私の信心はあった様に思うんです。ですから心に真と言う事、所謂真実と言う事。しかもそれを見極めた所からです信心というか、真の信心というか又謙虚な信心が出来て来たように思うのです。昨日から松栄会の方達が、恒例の入殿をなさっとられる。これはおかげを頂かんならんから入殿じゃないと思うんです。
 矢張りここ幾日間だけぐらいは、本気で本当な信心を得たい、求めたい知りたいと言う所からの発願だと思うんです。白衣を着けたり袴をつけたり黒衣を着けて。いうなら死んだと思うて、欲を放しての大袈裟に言うなら幾日間だと思うんです。いわゆるお道の教師ならお道の教師がです。これがお道の教師の根本姿勢だと思うんです。死んだと思うて欲を放して、一生涯を道の為に捧げようというのですから。私は、それを同じような意味のものを、松栄会の方達は感じての入殿だとこう思うんです。
 そういう事がです、私は神様の心を揺さぶる事になるんじゃないかと。神様の心をキャッチする。キャッチすると言うと大変ですけれどもです、神様も又同じ氏子の信心の上に思いをかけて下さる。そういう姿勢そういう態度からだとこう思うんです。今日私そこん所からです、そこん所からの信心が真の信心の第一歩と言う事になるのじゃないでしょうか。おかげの信心は誰だって出来ます。こればお願いしてこればお伺いしてそれが信心が段々分かっていく。
 分かっても分かってもそういう姿勢を取ると言う事は、中々出来ない。一生やはりおかげ信心で終わるという人が実は多いのです。信心すれば誰でもお徳が受けられる。御神徳が受けられる。みてると言う事がないという程しのおかげを頂くと言う事。そういうお徳というのは、何処からこの喜びが来るのか、しかもこの喜びが何処へ、また去って行くのかと。それは天地から、神様の心の中から、私の心の中に喜びが伝わってくる。その喜びが、又、天地へ帰って行く。
 それが御神徳じゃと、昨日は頂いたでしょうが。だからそういう信心というものが、只、お願いしておかげ頂いて、広大なおかげを受けたから有難いというのとは、全然違うわけです。私が昨日申しました。この喜びがどこから湧いて来るだろうか、別に原因じゃないんです。私はこの喜びを求めてというのでなくて、そういう信心を求めさせて貰う所から、それは期せずしてその喜びというものは与えられる。
 そういう喜びがこうやって、一つの天地から教祖金光大神、それを経て私共の心に、しかもその心が待た天地に還って行くと言う様なね。そういう信心生活こそ、身に徳を受ける修行である。信心とは今日私が申します、あるおかげの時点から、信心の時点に入った所からの信心をすれば、誰しもお徳が受けられる。しかもみてるという事がないと言う事になる。為には雨が降るから風が吹くから、えらい大儀と思うてはならぬと言う所になってくるしそうならなければおられない。
 昨日はこれは熊谷さん所の、恒例のお宅祭りで御座いました。今日あちらでお祭りを奉仕させて頂きながら、しみじみ感じる事はですね。本当に一年一年おかげを受けておられると言う事。もう真っ赤になっとりますから、恐らく十四、五年くらいになるじゃろうと思うとりますが、御神前に短冊が掛けてある。私が書いた。「どれ程か、お手間かけしぞ菊の花。」という句がある。あの短冊を受けられた時もです。合楽当時の椛目に御神縁を頂いて、始めて信心らしい信心が分かって来たと言う喜び。
 ここまでの為にはそれまで、ある教会で永い間信心の稽古をしてあった。いうならば初めて信心の心というものが生まれてきた。所謂おかげ信心から信心が分かりたいと言う事の信心に還られた。そこにここまて神様がお育て下さる迄には、随分あっちこっち迷わせたりしてあちらの教会にも行き、こちらの教会にも行ってそして当時の椛目に辿りつかせて頂いて、初めて私も信心が出来るんだと言う喜びが表現されておるわけですけれども。その句が毎年毎年年々歳々やっぱり同じ事だと言う事なんです。
 しかもそれは小さい菊から大きな菊とでも申しましょうか。大輪の菊とでも申しましょうか。少しばかりの信心菊の花から沢山の菊の花が、こう咲き匂うて誇って行くと言う様にです。だからここまで育てて下さる為に神様があらゆる問題、あらゆる事柄をとおしてですどの位お手間かけて下さったか分からないと、去年思うた事と今年思うた事とは大変な違いになっておるという感じのお祭りでしたですね。もう端々にそれを感じたです。もうどうかしてどうかしてというのが、年々変わってくる訳です。
 二十数年間本当に当時は、久大線を利用してでしたから、草野からあれだけの道のりのを真っ暗い中に、久大線を利用してからでした。合楽に参りましてバスを利用される。バスを利用されるようになったから、朝、しかもほんならそれこそ本当に、勿体ない私共が見ても、結構な身分でもありなさいますし、本当に一つ一つがおかげ頂いて、これば頼まんならん是がと言う事はない程しのおかげを受けて行っておられる。
 もう只々信心の喜びというか合楽にかけられる、信心の憧念心と言った様なものが募って行くばっかりである。昨日私こちらから迎えに来る前に、御神前に出て昨日のお祭りの事をお願いさせて貰いよりましたら、お吸い物鯛の吸い物を頂いた。中にほうれん草が、青みに一寸入れてある。所が油というのですかね一寸こう光っておる。だからこの油がとれたら、これはもう最高のお吸い物と言う事になるでしょうね。魚の油が浮いてはいけないと言われておるでしょう。だから油をとるコツ。
 いうなら、人間臭といった様なものが、もうチョッピリ、浮かんでいると言う事。それでも、合楽にかけられる思いというものはね、それこそ七十お幾つですか、いわゆる憧念心を燃やしておられる。いうならほうれん草である。もう合楽に惚れ込んでしまっておられるという事だと。そういう生き方がです、本当に、今日の御理解じゃないけれども。雨が降ろうが、風が吹こうが、それこそ一日の休みもない程しの、信心辛抱の修行をなさり、信心辛抱の徳を受けて行っておられる姿を感じるです。
 信心に目指す、信心を分からせて頂くことの有難さというものをです。私共が今日の御理解をもってすると、身に徳を受ける修行じゃというのは、そういう信心。だから只、おかげを受ける。おかげ、おかげというての辛抱はです。それは苦しい時の神だのみで、それこそ、水かかったり、火の行、水の行も厭わんというて参ってくるという、そういう辛抱が続くというのではなくて、そうした意味に於いての、今日私が申します、信心辛抱が続いてのおかげ。
 そこから本当の意味に於いての信心の喜び それを昨日の御理解から頂くと、それが御神徳だと。これがあの世にも持って行け、子孫にも残るということになるのです。ですから信心の様々な過程というものをです。熊谷さんなら、熊谷さんの上に於いても、永年の信心が、只、おかげ頂きたいばっかり。当時あちらには、十何年でしたかね、続いている大変な裁判の問題やら、自分のところに、どうでも男の子が生まれなければ、どうにも困る様な問題やらいろいろがありましてね。
 そのために金光様の御信心を頂いたと言われますから、だからそれが頂きたいばっかりの信心じゃった。それがですそんなことは、どうでも良いことになってきたです、その当時。そして、信心を分からせて頂きたいという信心が、二十数年間雨が降ろうが照ろうが、信心修行が続けられたと言うとになるわけです。だから自分の信心のどあいというものがです。今何処にあるかということを、一年一年の宅祭に、はっきり刻んで来られた様な感じがするんです。



 そして昨日の宅祭を拝まれた方達は、それを感じられたと思うのですけれども。どう神様にお礼を申し上げてよいか分からないという感じのお祭りでした。どんなにかして、神様にお礼申し上げたいが、どうお礼を申し上げてよいか分からんという感じのお祭りでした。それは年々信心が進んで来ておるから、そういう同じと言うものじゃない、内容が違ってきておる。そういう私は信心を最近の現教主様の歌集を読ませて頂いてです。それをはっきり感ずるです。今私は第一歌集から読み直させて頂いております。もう四十才前後のご時分から、お始めになっておられる。それをまとめたものを読まして頂いておるがです。はっきり教主様のお心の状態、信心の進められ方というものが、お歌に現れております。丁度、今日の御理解でいうならばです、もう真実の信心をです、受けようとする姿勢を、第一集には示しておられるという感じがいたします。それを私は、書きとめておるのを少し読んでみましょう。
 「みじめぞと思う思いの度を越えて、いよよ惨めさ深まりゆくか。」
 「人をしも軽く見るなといましめし、御教え思うわれも人なり。」
 「思いやり足らぬがままに不信感、生じ募りて争い起こるか。」
 「わが姿勢、点検なすも、正すことも、共に足らざる、恥入るわれは。」
 どうぞ、今日の御理解を思うてから聞いて下さいよ。教主様でも、四十才のご時分は、やはり自分の、いわゆる今日の御理解で言う、真実の心というものを見極められたところから、お歌がこういう真実感溢れる様なお歌になっおる訳ですから。今日の事を思うて聞いて下さい。という程、助かって行かれる喜びといったようなものでなくてから、助かろうとなさる。それは本当の信心によって助かろうとなさる姿勢が、殆どの歌になっとりますね。
 「持つべきものを持ち得て、持てるもののごと思い、誤りものをいう吾か」と、こう言う。自分にありもしないものを、あるようにして言う。その誤りの自分を見極めておられる。「表現は問題ならず問題は一に表現以前の吾か。」これなんか素晴らしいでしょう。問題が起こったら、何とかかんとか、その問題だけを解決しょうとするけれどもね、そんな事じゃない。その問題以前のものが問題だと言っておられますね。そこにはもう神様相すみませんより外、生まれてこないです。これは最近申しております。
 「頼りなきものを頼りとする故のこの頼りなさ不安なれかも。」教主様も、四十才頃には、そういう不安で一杯にお有りになったという事が、分かります。
 「至らざる我を思えば、自ずから、謙虚なる思い、わくに非ずや。」
 「学ばずして教ふることは、食わずして走ることしと言いつつ嘆く。」と仰っておられる。
 「言葉もて、わびるは易し、行いもて、それを表す、いたくも難し。」と、難しいということですね。
 「人が話し、吾が聞き居つつ、動かんとするわが心、ひたなだめおり。」と、自分の、例えば、ある人の話を聞きよると、自分の心の方が迷うて、または、いやな自分なりに、浅ましい心が起きてくる。それをひたなだめておると仰る、おさえておると仰るですね。 「非難めく、言葉おのずとわが口に、出でしを嘆くものは言いつつ。」
 これなんかは、もう素晴らしい。これをね、はぁ自分は人を非難しよる。あぁこんな事じゃいけない、こんな事じゃいけないと言いながら非難しよる。ものは言いつつと仰っておられる。人の非難くらいはもう、そんな事は思いもせん、反省もせん。当たり前のごと言うて陰口を言う、悪口を言う、非難をする。そういうところから、一歩脱出しておられる。そしてそれに取り組んでおられるお姿だと思うですね。
 「こだわるは、悪しとわれの思いつつ、尚押しこだわる一つのことに。」と。
 「一線を、守る仇を苦とせざる、道あるありて、われの歩む。」
 「人が嘆き、聞きつつおれば同じ嘆き、わが心にもありてひそめる。」
 「程々の、持つよき趣味は、日常の家庭生活、豊かならしむ。」
 良き趣味も、こらば埒越え、こちとは埒があかんという時の、埒という字が書いてあります。「良き趣味も、こらばこち越え、道楽となりて家庭の生活くずす。」と。
 「道楽と趣味のけじめの限界は、いずくなりつと思い思うも。」
 「良き趣味を持てりわれはと思いつつ、道楽としてなれる気づかん。」それこそ、いうならば、大変な道楽というか、趣味が、多趣味なお方です。やはり、自他ともに許す文化人でおありになるわけです。それこそ、あらゆる高尚な趣味というものを身につけておられる。それより、こういう反省を持ちながら、その趣味を勉強しておられる姿が、そういうふうにみえられます。
 どうぞ、いま、一読させて頂きました。いうなら、今日の御理解で言うと、ここのところからという、真実の自分というものを、分からせて頂いてからの信心を、私は、そういう信心が、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。身に徳を受ける修行じゃというのは、そこまで出てからの事だと、私は思うです。それを、私のことで申しますと、終戦、此の方の事を、食う資格なし、着る資格なしと、自分の本当の真実の姿に触れたところから、真の信心が、段々出来てきたように思うのです。
 只熊谷さんがです、裁判に勝たなければならない、どうでもいっちょ男の子だけは、自分方は娘さんばっかりですから、出来なければこの財産は、どこさんかやってしまわなんような羽目になっておられた訳です、息子が居ない。だからそれはやっぱり一生懸命、願われた。そして一人息子頂かれた訳です。その事の為に今までは一生懸命の信心であったのがそういうことに、裁判のことやら、そんな事は問題ではない。信心が分かるということ。まだ椛目に通われるでも、あすこに息子さんが大学に三年目でしたかね、慶応に入られたのは。それまでは、只そのことだけのような感じでし、やっぱり。
 けれども、そこで落ちられ、又落ちられというふうにして、また、入学、就職といったようなおかげを頂きながら、御神意の深さに、いよいよ触れていかれて、その頃から、いよいよ信心が、真の信心といったものに向きが変えられておられるように思います。そういう一つの様々の過程を、今日は聞いて頂いたんですけどもね。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行というのは、只、何十年間、雨が降っても照ってもお参りしよるので徳を受けるのじゃないという事。おかげの世界から、信心の世界に踏み入れてからの、この御教えであるという事を、今日は、聞いて頂きましたね。
   どうぞ。